院長ストーリー

院長 中村晃慈郎Nakamura Kojiro

プロフィール

中村晃慈郎(なかむら こうじろう)
ペンネーム「中村鴻允」で活動もしています
Trainer for the top athlete
1974年11月8日生まれ(寅年・八白土星)

ヒストリー

  • 長生学園(東京都)厚生大臣認定医療専門課程卒業
  • 厚生大臣指定登録機関 財団法人東洋療法研修試験財団にて按摩マッサージ指圧師免許取得
  • 日本サッカー協会公認D級コーチ
  • 日本赤十字社 幼児安全法支援員
  • Canottieri Belluno (ITALIA)チーム公式トレーナー(98-99シーズン)
  • (株)アーキテクトより業務委託(契約選手へのトレーナー業務)
  • 契約選手と共にイタリア・ヴェネチアに帯同(99-00シーズン)
  • (株)スポーツコンサルティングジャパンより業務委託
  • Reggina calcio Japan tour 通訳兼アシスタントトレーナー業務(03年・04年)
  • (株)Amazing Sports Lab Japan より業務委託
  • AC Milan ジュニアキャンプ2011 トレーナー業務

院長ストーリー

はじめまして。中村晃慈郎です。どのようにして私が治療師になって今に至るのかちょっとお話させていただこうと思います。

母が階段から落ちた!

私が小学校4年生のときのある深夜、帰宅した父のために玄関を開けようとして母は2階の寝室から起き上がり階段を下りたところ、寝起きで足元が不安定だったのかツルッと足が滑って母は一階まで落っこちてしまいました。その時に首と腰に受けた衝撃でかなりきつい神経痛が発生。40日間入院し(母に会いたくて雪の中、ひとりでバス電車を乗り継ぎ+子供にはちょっと長い道程の徒歩で御見舞いに行った事を思い出します)手術を勧められていましたが成功の確率は五分五分もしくはそれより低い。「絶対に自分の脚で立てるようになりたい」と強く願う母はどんなに時間とお金がかかったとしても確実に治る手段を探すべく退院・帰宅してきました。左首~腕と左腰~脚の激痛に根性で耐えながら車を自ら運転しての治療院探しが始まりました。 何十軒行ったかわからないくらい探しました。


母の開業

母は南与野(さいたま市内)の指圧&脊椎矯正の治療院でじっくり治療を受けることにしました。週二回で1年間通った頃にその治療院の先生から「だいぶ快復してきたけどメンテナンスは生涯必要な状態だよ。死ぬまで料金を払い続けるのだったらそのお金で治療師になる勉強をして→治療院を立ち上げて弟子を採って自分が本当にしてもらいたい治療を教育するのもいいね」と勧められ超前向きな性格の母はさらなる自己投資を始めました。 家族の朝食と弁当を作ってから東京の専門学校に行き、学校のあとは南与野の治療院でアルバイト、帰宅して家族の夕食を支度して、深夜に専門学校の予習復習という多忙な2年間を経て自宅の居間を改装して私が中学校1年生のときに母が“王拯治療室”を開業しました。


母と同じ専門学校へ

王拯治療室は“痛みをわかってくれる先生がいる”という口コミで人気が出てきて、自宅の居間では手狭になり、広いテナントに引っ越してはまた更に広いテナントに引っ越すという「栄転」を度々しました。一方私は中学高校の6年間陸上部に所属して猛練習、日曜日はボーイスカウト活動という充実の日々でした。 ケガや故障をしてもすぐに王拯治療室で早期治療を受けられる環境だから猛練習にも耐えられたのだと感謝したものです。部活のあと治療室に行くと待合室で患者さん達から母やお弟子さん達の仕事ぶりの素晴らしさをよく聞かされました。その頃からでしょうか、「僕もこの仕事やろうかな」と徐々に思うようになり、母と同じ専門学校に進学することにしました。


卒業。イタリアへ

朝からは王拯治療室でアルバイトをして夕方から専門学校の夜間部に通う3年間を経て国家試験に合格し、按摩マッサージ指圧師の免許を取得。その年の秋(98年10月)にイタリア北東部の小都Bellunoにある整形外科で3ヶ月間の研修へ行く機会を頂きました。免許取りたてホヤホヤ21歳が言葉も文化も知らない場所で仕事をするチャレンジに対して周囲は惜しみなく応援してくださいました。


3ヶ月のはずが!

研修期間が終わる頃は、イタリア語を学ぶ楽しさにはまっていました。そして整形外科での研修が終わった後もBellunoにしばらく残り語学学校に入学。その傍らで現地の方々のお宅の昼食や夕食に招いて頂いて東洋医学のことを実技をまじえて紹介させて頂く活動を始めました。丁寧なイタリア語を使うことを心がけていたので目上の方達とも失礼の無いようにコミュニケーションが取れるようになっていきました。(勿論日本でも同じです!!!私が現在若手スタッフに言葉遣いのことをしつこく指導するのはこのあたりの経験に基づいています。)


チームでトレーナー

98年の夏にAlvise Bortrini氏とその有志によってフットサルのクラブ“Canottieri Belluno”が創立。東洋医学の啓蒙活動をやっている過程で多くの地元の方達と知り合い、その方達がクラブ会長のBortrini氏に私の事をトレーナーとして推薦してくれて、採用して頂きました。私自身は陸上部、つまり個人競技の出身でしたが大勢の選手や監督と長いリーグ戦の期間を同じ目標を持って戦っていく事の楽しさを教えて頂きました。


治療室解散

そんな風に私がイタリア生活を謳歌している一方で王拯治療室は相変わらずの人気ぶりで43坪にまで患者さんの受け入れ態勢を整えるべく成長していました、が、一番古いお弟子さんが独立開業で退職、二番目古いにお弟子さんが産休ということで人材不足になり、大勢の患者さんに対応できない状態になっていました。私はリーグ戦を終えたらすぐ日本に帰り母の仕事を手伝うことに。大勢の患者さんに囲まれ難しくもやりがいのある仕事をさせていただきました、周囲からの「治療室に跡継ぎ息子が戻ってきてひと安心」という期待を振り切って再びイタリアに行ってしまうのはそれから半年後でした。母もこれまでの拡大路線を見直し、新しいかたちの治療活動を始めることにしました。大勢の患者さんと修行中だったお弟子さん達には大変な迷惑をかけてしまい申し訳ありませんでした。


1999年12月末。王拯治療室解散

イタリアサッカー[セリエA]

1999年10月。イタリアでプレーしている日本人サッカー選手がトレーナーを探しているので採用テストを受けてみてはどうか、という誘いを受け10日間のテストに挑戦し、合格。 「あんなに繁盛している治療室の跡を継がないって、どうして?」当時はよく訊かれました。「地域最大級治療院の経営者」と「世界最高峰のフットボーラーが集まる環境で勝負する人」、どちらを魅力的と思うかは人それぞれでしょうけど私は後者を選択したということです。 選手宅と練習グラウンド、どちらにも自転車で10分のところに部屋を借りて、練習前後のマッサージだけでなく料理掃除洗濯や泥棒除けなど色々やりました。

☆どうして私が合格だったのか選手と選手のマネージャーさんに質問☆
「日本で診てもらっていたトレーナーと手の感触が近かったから」(選手談)
「余計なことを喋らず、真面目に仕事をするから」(マネージャー談)


フリーランス。ギャラとスキルは上がったけど・・・

選手が日本のチームと契約したことに伴い、私も日本に戻りました。大きな目標を成し遂げたあとで次は何をするか決まらず2年間は所謂燃え尽き症候群のような状態で毎日お酒ばかり飲んでいました。それでも仕事を教えてほしいと言う見習い希望の若者達と会っていろいろ話をしているうちに、私の経験&母から受継いだ事に基づいて人材を育成する役目を自分に課し、より多くの方達に優秀な技術を真心こめて提供できる「基地」を作ろうという気持ちが芽生えてきました。そして決心・実行するまでにはそれほど時間はかかりませんでした。

物件探しや宣伝を応援してくださった地元の皆さん、ありがとうございました。会議で私のために粘ってくださった国民金融公庫の担当者さん、ありがとうございました(苦笑)。「緊急の時に使いなさい」と言って分厚い金一封を贈ってくれたお父さん、ありがとうございました。そして最後に…ここまで仕事をできるように教育してくれたお母さん、ありがとうございました。皆様これからもヨロシクお願いします。今、私は患者さんに育ててもらっています。

これからも王拯治療室の成長を見守っていて下さいね!